謹賀新年 : ハイデルベルグの冬 (2015.1) [書き加え在り (2024.3)]
新しい年を迎え気持ちを引き締めて、さらなる自分の成長のためこれからもしっかり頑張って努力して行きたいと思っています。昔、幼少期においては、お正月は常に特別であり、寒風の中、野山を駆け巡ったものです。近くの神社では甘酒が振舞われて、それがひどく美味しくて何杯も飲んだものでした。夜はみかんと焼き芋を食べながら、百人一首のかるた取り。自分は苦手でしたが楽しさは格別でした。みかんは当時(昭和30年ごろ)はまだ贅沢な果物でしたが、このみかんは屋敷にあった8本ほどの温州みかんの木から晩秋に取ったものを木の樽に入れて保存したものです。それを取り出して食べ始めるのがお正月でした。尤も、自分は秋口から木の上でみかんを猫と一緒に食べたものでしたが・・・。
寒さと言えば1970年代半ばの Heidelberg においては、冬の寒さが一段と厳しいものでした。ある日の昼下がり、Philosophenweg の道沿いにある原子核理論の研究棟(貴族の館)のバルコニーから Heidelberg の中心街をボンヤリ眺めていました。すぐ目の前には Neckar 川が横たわり、その向こう側が Heidelberg の古い町並みでした。その日、Neckar 川に掛かる橋のうえでは、まるでスローモーションのように車が Bismarckplatz の方角にそろそろと動いていました。また、そこ此処で車や路線バスが立ち往生していました。このあたりはその日までの数日間、零下5度以下の寒さがつづいていました。しかしその日、昼頃に暖かい空気と雨を運ぶ低気圧が Heidelberg に差し掛かったのです。この場合、降った雨は直ちに凍ってしまい、どの道路も歩く事さえ難しくなってしまいます。ましてや車にとっては、この氷の道路は何をしても無駄であり、ともかく走らないでしばらく待つしかないという事のようでした。この町全体がまるでスケートリンクのようになったのですが、これはしばらくして(30分程後に)解消されたようです。
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それから10年ほど経った年の春に Heidelberg にある Max Planck 研究所に客員教授として招待されて、1年間滞在する機会を得ました。それまでの70年代後半における Max Planck 研究所滞在の場合は、基本的に言って研究所における研究生活のみがドイツにおける生活のほとんど全てであったものです。しかし今回は子供たちが学校に通ったため、これまでと比べてその生活スタイルは大きく変わる事になりました。
Heidelberg の生活が始まって間もなく、上の子(長女)は小学校に途中から入る事が出来たため、規則正しい生活が始まり、また友達も徐々にでき始めていました。しかし下の子(長男)はまだ就学前であり、まずは幼稚園からとなっていました。ところが、近くの幼稚園では定員が一杯で受け入れる事は出来ないと知人から言われていました。しかし同時にその知人は『親が子供を連れて直接行けばどうにかなるかも知れない』と教えてくれました。そしてある日、家内は長男を連れてその幼稚園に直接行き、幼稚園の先生に子供を受け入れてくれる様に頼み込みました。そして幸運なことに、長男が幼稚園に入る事を許可してくれたものです。勿論、子供たちのドイツ語の知識はゼロでしたが、彼らは直ぐに近所の子供たちと一緒に遊び始めていました。言葉の問題は大人とは異なり、割合早く何とかなるものですね。勿論、本人たちも随分と努力し、苦労もしたとは思っています。しかしこの場合、非常に重要なポイントが一つあります。それは『母親がその国の言葉を話せること』ですね。いずれにしても、この幼稚園の生活は2か月半程と言う短い期間でしたが、後でこれが非常に重要になるとはその段階では知る由もありませんでした。
当時、ドイツの新学期は9月半ばから始まりました。それで、長男が小学校に入学するため幾つかの手続きが必要でしたが、それは何とかクリアすることができました。そして、いよいよ入学式となり、自分もそれに出席しました。その学校がある町は Heidelberg の郊外にある Ziegelhausen と言うところでした。入学式は町にある講堂で行われましたが、その場合、そこでは就学するすべての子供達の名前が読み上げられていました。そして、その年の1年生の生徒の数は25名前後であったと記憶しています。
入学式の後、学校に戻り子供たちのクラス分けが始まりました。一つのクラスの定員は12名程であると聞いていました。自分は少し離れたところで成り行きを見守っていましたが、長男(Aki)のクラスは B であると先生が教えてくれました。これは A のクラスの人数が B のクラスよりも数人多いためであると言うことでした。そして、自分もそれで了解していましたが、Aki の周りに数人の子供達(幼稚園でできた友達)が集まって、彼を取り囲み、まるで護衛しているような雰囲気になっていました。自分は事情が全く分からなくて、そこに茫然と立ちすくんでいました。
その時、隣の家の子供の父親 (Tさん) が自分の所にやってきて『このクラス分けは困るので変更するように先生に言っている』と説明してくれました。すぐ近所に住んでいる幼稚園からの友達が3名いて、この子供達と違うクラスに Aki が入れられてしまったと言う事でした。自分はクラスが違っても、それ程、困る事はないだろうと思っていたのですが、T さんは『クラスが同じであることは絶対条件である』と説明してくれました。それはクラスが違うと授業の始まる時間も異なると言う事でした。そのため『同じクラスでないと朝、一緒に学校に行けない事になってしまう』と言われました。特にドイツの冬では朝、まだ7時ごろでは暗いため、一緒に登校することは非常に重要な事でした。
しかしそれにしても、数人の子供達が Aki をガードして他のクラスにはいかせないように先生に直談判している様子が今も忘れられない光景として残っています。そして、最終的には先生の方が折れて Aki を A のクラスに入れる事を了承してくれました。もし幼稚園に行かなかったら、恐らくこう言う事は起こらなかったものと思われますが、どうでしょうか。そして、ドイツの小学校の事情が全く分かっていなかった我々に対して、 T さんの親切心には感激し、本当に感謝してもしきれないものでした。実際、近所の子供たちが皆、一緒に学校に通う事の重要性がその後、しみじみと分かったものでした。
[2024年3月記す]
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昨年(2014年)の12月半ばには夏の「暑気払いの会」に続いて「議論の会」を新小岩で行い数名の若者が集まりました。彼等は皆、物理をよく考えている研究者の卵であり、将来、必ずや科学における指導的な立場になる、才能豊かな若者達です。赤ワインを飲みながら、そしてとろろ芋汁《熱い味噌汁にすりおろしたとろろ芋を入れてかき混ぜ、それをご飯にぶっ掛けたもの》を食べながらの議論は尽きることなく、次々と質問やら新しい考え方などを議論しました。この議論の中で、光とは何かと言う問題が最も難しくまた重要な話題でした。この「光を量子論的に正確に理解する」という作業に関しては若手全員がまだまださらに勉強してしっかり考えなければならない余地を残していると感じました。
今後、光と生物の相互作用の問題が必ず大きなテーマになって行きます。この時、光をきちんと取り扱う事ができるためには、どうしてもベクトルポテンシャル場の量子化をしっかり理解する事が重要です。ベクトルポテンシャルは実数場なのに、電磁波を記述していると言う事実があります。この場合、何故、実数場が自由フォトンである複素数の状態関数を記述できるのかと言う問題を深く理解する事が大切です。
さらに背景輻射として存在している大量の電磁波(マイクロ波)は様々な点で非常に重大な意味を持っている事が分かってきています。この背景輻射の存在は「Mugen Universe (無限宇宙)」の一つの証であると考えられていますが、我々の宇宙《約150億光年に約1兆個の銀河系がある宇宙》の存続と密接に関係しています。我々の宇宙は無限の過去から「爆発による膨張」と「収縮による爆発」を繰り返してきたものである事は科学的に間違いない事です。しかしその場合、我々の宇宙だけが存在していたと仮定すると矛盾が生じます。それは明らかで、爆発により膨大なエネルギーを光とニュートリノによって我々の宇宙の外に放出してしまうため、無限回の爆発は我々の宇宙の孤立的な存在とは矛盾してしまいます。この場合、我々の宇宙の存在を可能にしているのが無限宇宙空間に存在している背景輻射であると考えられています。さらに、恐らくは生物の存在もこの背景輻射の電磁波の存在と関係しているのではないかと思っています。しかし、これはまだ科学になってはいませんが・・・・・・・・
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