中間試験 : 追想 (2024年7月) [付記:国立大授業料の無料化]
昔、解析力学の講義中に3回ほど、中間試験を行っていました。これは確認テストの意味合いがありましたが、それ以上に学生諸君にまずは授業に出る事の大切さを伝えたいと言う事が主な目的でした。実際、最初の講義の時に『こちらは講義のために胃が痛くなるほど懸命に講義の準備をしているのに、その講義を聞かないとしたらこれは一生の不覚である』と学生諸君に伝えたものです。
中間試験は講義終了時間の30分前から始める事にしていました。一応、試験の形式は踏んでいて、問題用紙を配り『手にした者から始めてよい』として試験を行っていました。それで、全体に行き渡ったところで『周りに迷惑を掛けない程度に、隣同士が会話をしても良い』と伝えました。学生諸君は皆、一様に驚いた様子でしたが、しかし隣りと話したり相談しても良いと言う事でかなりの学生は緊張が緩んだ感じでした。その時、ある学生が大きな声で『先生、試験前に言ってよ。(隣の学生を指さして)こいつでは足しにもならない!』と不平顔で文句を言ったものです。これに対してその隣の学生は『それはこいつも同じだよ!』と言ったので、他の学生はクスクスと笑いながらも試験問題を解いて答えを求めることに集中していたようです。実際、過半数の学生は自分で計算して答えを出して、解答用紙に書き込むことに忙しい様子でした。
これはすでに10年以上も昔の話になってしまいましたが、当時の学生諸君も今は30歳を超えていることでしょうね。そして現在、バリバリで働いておられることと思います。その中でも、今度は教員として子供たちに教える立場になっている人達もおられるものと思います。この時、教える事の難しさを痛感されていることでしょう。知識を伝達するだけなら比較的簡単と言えますが、しかし大切な事は子供たちが何らかの形で『技術習得』に興味を持ってもらえるかどうかと言う事です。そして、さらに中学や高校では受験と言う壁がありますね。受験勉強に意味があるかどうかと言う論争は昔から何回も繰り返して行われてきたことですが、しかしこればかりは良く分からないものです。入試の平等性(公平性)と言う点では、何らかの形で試験をするしか他に方法はない気がしていますが、受験の弊害も半端なものでは無いほど深刻です。現在のように、暗記型の入試問題が主力である限り、どうしても技術的に優れている有能な若者を潰してしまう危険性が相当、大きいものですね。
[付記] : 国立大授業料の無料化
それで当然の事ですが、高等教育は国に取って生命線となっている程に重要なものです。ところが現在、大学では高額の授業料を払う事が当たり前になっています。昔、自分が大学生の頃(1960年代後半)の授業料は年間9千円でした。確かに、貨幣価値が今とはかなり異なっている事は事実ですが、やはりこの授業料は合理的なものでした。ちなみに当時、東京で賄い付きの下宿生活をした場合、1か月の下宿代は1万5千円でした。
しかしながら、社会保障が充実してきたら(家社会から脱却したら)高等教育も国が全責任を負って行う必要があり、この場合、大学の授業料を当然、無料にするべきです。最近、東大の授業料を値上げすると言う話が出ているようですが、この大学の教授たちの見識も地に落ちたものですね。大学教授と言う名の幽霊学者の集まりが大学の管理運営を行っている現状が垣間見えるような気がしています。これは本当に困ったことですが、しかしどうしたら良いのでしょう?尤も、まずは国が国立大学の授業料の無料化を行う事が先決ではありますが・・・。
[注1] 幽霊学者 : ここでは中身が乏しく、足が地についていない学者と言う意味合いで使っています。それ以上の意味は特にありません。
[注2] 幽霊学生 : この言葉は昔はよく使われたものです。これは『登録はしているがほとんど出席しない学生』の事を言います。昔(35年前)、Heidelberg である集会がありましたが、その時一人の日本人が『日本語学科は結構、人気があるようですが学生数はどのくらいでしょうか?』と Heidelberg 大学日本語学科のドイツ人教授に質問されたことがありました。この時、その先生は『確かに、学生の登録者数はかなり多いですね。しかし半分以上は幽霊学生です』と答えられました。この絶妙な返答に、この先生の日本語の実力は相当のものであると感心した事を覚えています。
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[付記G] : 何故、一般相対論は無意味か? [2023年12月]
現在、一般相対論が何故,物理的には無意味な理論であるかと言う事が厳密に証明されています。これは Einstein 方程式は数学的に間違っていると言うわけではありませんが、しかし物理的には無意味な方程式であると言う事の証明です。小ノート 『 何故、一般相対論は無意味か? 』を参考にしていただければと思います。
結局、これまで現代物理学の最も重要な命題は『新しい重力理論が場の理論的に作ることができるか?』と言う事に集約されていました。これがあれば、もともと一般相対論は不要でした。新しい重力理論に関しては [教科書 Fundamental Problems in Quantum Field Theory (Bentham Publishers, 2013) ] を参考にして頂ければと思います。
一般相対論のような物理的に意味をなさない理論に多くの人々が振り回されてきた事実は取り返しがつかない程、重いものですね。しかしこれからは前を向いて行くしかありません。この場合、物理を学ぶ時に、実は哲学を学ぶ事も重要であると考えています。特に、研究において、どのような方向に進んで行くべきかと言う事を模索している時に、哲学的な思考法は重要な指標を与えてくれることがしばしばある事は間違いない事です。詳しい事はここでは触れませんが、最近出版された 『恣意性の哲学』(四方一偈著、扶桑社新書476) が少し参考になるかも知れません。この本は物理とは直接の関係はありませんが、私の最も親しい人が書いた本なのでここに挙げておきます。若手研究者は時間を見つけて是非、読んで頂きたいと思います。
[記:この哲学書の著者 (兄・圭一) は令和6年4月初めに他界]
[付記 S]:積み重なる努力 [2024年1月]
現代においても、才能ある若者がその才能をあまり発揮できていない場合がよく見られています。これは才能はあっても、実際には環境とか運とかタイミングがかみ合わなかったりして、その才能をうまく開花できていないと言うことですね。それではこの場合、その才能を発揮してさらに伸ばして行くためにどうしたらよいのでしょうか?恐らく最も重要な点は、他の人よりもより多くの『積み重なる努力』を続ける事であろうと考えられます。
それでは、その『積み重なる努力』とはどのようなものなのかが問題となりますね。物理学において、自分の実力をつけるために、物理の教科書(例えば電磁気学)を何回も読んでそれをほとんど覚えてしまうような、そう言う努力をしたとしましょう。ところが、この努力は大学において試験の点数を稼ぐには効果があるかも知れませんが、残念ながらこれは積み重なっては行かないものとなっています。教科書を覚える事をしても、これは物理の基礎トレーニングにはなっていないからですね。一方において、例えば電磁気学の演習問題を執拗に解きまくると言う事を実行して行くと、これは物理における積み重なる努力に対応しています。但し、これは途方もなく時間が掛かってしまうし、また非常にタフな作業となっています。従ってこの演習問題を解くと言う基礎トレーニングを効率よく行う必要があります。それは、人が持っている時間(人生)は有限であり、そのハードな作業を一定の時間内にやり遂げる必要があるからですね。従って、この作業を実行して自分の実力をある期間内に向上させる事ができるかどうかが重要なポイントとなっています。そして、これができるかどうかも一つの(別個な)才能と言えるものかも知れませんね。
[付記SS] : 理論物理の基礎トレーニング [2024年7月]
理論物理学の研究においてトップレベルの新しい研究を持続して行うためには『基礎物理学の演習問題を解く』と言う作業が重要となっています。例えば、電磁気学の演習問題を解き直してみるとかゲージ不変性について再検証すると言うような基本的な作業を普段から行っていない限り、高いレベルの研究を続けることは、まず不可能となっています。実際問題として、しばらく前に提案した『 試験問題 』を自分で解けない研究者が新しい研究を遂行できるはずがありません。理論物理学の新しい研究は常に基礎物理学を土台として、その上に成り立っているからですね。
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