卒業生の皆様へ : 教養の重要性 (2015年1月)
大学で学ぶ学問のうちで最も重要な部分が「教養」である事は昔も今も変わりありません。自分の頭でしっかり考えるための基礎を作るには、教養こそが最も重要なものです。しかし近年では、なるべく早くから(極端な場合1年次から)専門の講義をしたがる教授陣が多くて、これは本当に困った事です。教養の乏しい教授達は教養科目を軽視しがちで、どうしても専門教育を急ぎたがる事になります。大学に入ってから学生は色々な勉強をして人間的な成長をする事が最も大切です。理工系の場合、基礎的な数学や物理・化学・生物を勉強する事は当然必要な事ですが、同時に、哲学・文学や経済・法学やさらに様々なスポーツを学ぶ事も非常に大切な事です。例えば、昔、教養学部の1,2年次で私が最も力を注いだものは「キルケゴールのゼミ」でした。これは単位にはならないものでしたが、自分にとって最も強く印象に残るものとなっています。キルケゴールは自分が野垂れ死にするほど当時の教会を批判し、実存主義の考えを押し進めた哲学者です。彼は「自分にとっての真実は何かを見つける事」の大切さを強調していましたが、当時の自分にとってこれは非常に斬新な考え方でした。
ところで、学生は大学を卒業するために講義の単位を取得する必要があります。その単位を与えるのが教授なのですが、その教授達に給料を払っているのは学生達(実際は父母等の後援者)です。従って学生は教授に取って教える対象であると共に「お客様」でもあります。 これは通常の社会的な感覚からは考えられない矛盾する関係となっています。このため、大学の教授陣はともすると「審査員」になってしまう問題が生じています。すなわち、教授はもともと学生に知識や教養や技術を教えて彼らの成長を促す「指導者」であるべきなのですが、指導を放棄して単に学生の成績を評価しているだけの「審査員教授」が決して少なくないのが現状です。しかし大学の教授が審査員になっていると「あの先生に質問しても答えてくれない」と言う事になり色々深刻な問題を惹き起こしています。しかし教授の職は常勤職であり、教授の能力・人格審査を厳しく行う(降格)システムを導入でもしない限り、この状態を変える事は絶望的に難しい気がしています。
これは教授の採用と関係していますが、大学でも会社でも新しく人を取る事(人事)は非常に難しいものです。昔は、人事は「公平に実力で」と私は常に考えたものでしたが、最近これが全く機能しない場合がある事を思い知らされました。実は、人の実力にはそれ程大きな差はなくほとんど紙一重です。このため有名大学出身という肩書きが幅を利かせてしまい問題を惹き起こします。実際には大学で必要な人材として最も重要な要素はその人柄です。勿論、その実力が余程抜きん出ていれば話は別ですがその例外を除いては、人事は人柄(人物)で選ぶべきです。その意味においても人事はやはり「縁故・知り合い」が安全であり、これはかなり有用であると考えています。昔、私が赴任した当時の教室には後藤・浜田・佐藤・小笠原というそうそうたるメンバーが在職していましたが、彼らは「知り合い」として教室に来た人達だと聞いています。それもこれも今は昔、昔の話ですが・・・・・・・・
その昔、私は世界中の様々な研究グループをしばしば訪れて、多くの物理学者と交流し議論を重ねたものです。その時、その研究グループがまともである事の条件は「そこにいるメンバーの3割が有能である事」と言う「持論」を展開しました。この時、議論したほとんどの研究者はこれに大変興味を持ち、また賛成しました。しかし同時に大半の研究グループは「その条件を満たす事は到底出来ない」と言っていました。今は、研究グループに一人でも有能な研究者がいればそれで良いのかもしれないと考えてはいますが、現実はどうでしょうか・・・・・・・・
尤も、有能な物理学者という定義も結構難しく、ある程度実績を残している事は必要条件ですが、実績だけでは有能とは言えません。やはり科学者として、ぶれる事なく自然を理解している事が最も重要なことです。それで、人々は Smart People (優秀な人)と言う言葉をよく使いますが、確かに彼らSmart People の物理の理解と知識は非常に優れています。最近、私の友人であるドイツの Smart People 達が我々の重力理論に対して興味を持ち、何人かが私にメールで質問してきています。それは「お前の新しい重力理論は正しいと思うが、しかし、何故、昔の Smart People はその重力理論を作れなかったのか?」と言う疑問です。しかしこればかりは私も正確に答える術を持ちません。しかしながら、西島先生との議論で「何故、Smart People が新しい重力理論を考えなかったのか」の理由はわかっています。それは繰り込み理論に対する誤解とその理論への過大評価の問題と関係しています。スカラー場の場合、繰り込みは不可能であり、従ってそれに基づく重力理論は作れないと人々は思い込んでいました。しかし我々は重力場の量子化は不要であると言う事を明らかにして、そもそも繰り込みを考える必要がない事を証明し、この問題を解決したわけです。さらに、Higgs粒子の問題もアノマリーの問題も、結局、根っ子の問題はすべて繰り込み理論にある事がわかっています。詳細は教科書(Bentham 出版社)で解説してありますので参考にして下さい。
■ [追記] 2017年5月 :
大学において教養が軽視され始めると、実は大学の存続自体が問題となってきます。知識やある種の技術を修得するだけの場合、大学よりも専門学校の方がはるかに合理的だからです。専門学校では学生がその知識や技術力を修得して自分の実力をつけるよう努力します。それはその関係の「資格試験」に合格することが目的だからです。そのため、そこでの教授法によって学生の実力が向上しない場合には、その専門学校の教授は適性がないと判断され教授としては失格となる可能性があります。一方、大学では、学生は教授が教える授業科目の単位を取得することが重要な目的となっています。このため、その講義を教授が教えているにもかかわらず、その教授は学生に単位を与えると言う「審査員」の役目もしています。実際、現実の大学では教授陣と学生との関係が「お金を支払う側とそれを受け取る側」と言う関係が崩れてしまい、必ずしも正常なものとはなっていません。特に、現在のように大学の教授陣のレベルが恐ろしいほどに低下しているかなり多くの大学では、大学としての機能が保たれていません。実際、「A教授とB教授がある統計物理の問題に対して異なった解答を出して学生を混乱させても平然としていた」と言う話や、「C教授は自分が廻した解答に対して、学生に『それは間違っています』と指摘されると慌てて修正したが、実際にはその学生が間違っていた」と言うお粗末な話が報告されています。また、法科大学院の話がある時期に話題になっていましたが、これは学生が司法試験に受かることが目的ならば専門学校にした方が良いことは明らかです。しかしその場合、「法科専門学校」でしっかり教えることができる教授が何人いるか、この方がむしろ問題になるものと考えられます。
大学がその知識を教えるだけならば「学位」を与えるという形式をやめて、専門学校的にするべきです。その方が大学の教授陣の自然淘汰を促し、従って彼らのレベルを全体として上げることになると思われます。日本における現在の大学の数は明らかに多すぎます。恐らくは、大学の数を半分程度にすることが大学の活性化を図るためにどうしても必要であると考えています。その場合、大学の減少に応じて、専門学校を大学と同じようにサポートして行くという事が重要になってくると思っています。
大学は知識や技術だけを教えるところではありません。若者の成長を全体として促すことが最も重要です。例えば、原子爆弾製造の知識と技術だけに興味を持つような若者を育ててしまったとしたら、それは非常に危険な教育となります。その若者にとって、彼が人間として成長し、科学が人間の文化の中でどのような位置づけにあるのかと言う基本的なことをしっかり学んで行く事が重要です。そのためにも「自分の言葉で考える力」を養う必要があります。これが大学の存在意義のうちで最も重要な点である事は、昔から変わることはありません。そしてその自分で考える力の原点が教養であると言うことです。
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