☆ 不思議な話 : バンクーバーの猫 (2024年2月)
☆ TRIUMF 研究所 :
20世紀もあと数年を残すのみとなった年の夏、TRIUMF 研究所に招待され、Vancouver に1か月程 滞在して研究生活を送る機会を得たことがあった。この時は家族で出かけたため、その滞在する家を探すことがかなり大変であった。幸いにして、Vogt 先生が奔走してくれて、British Columbia 大学教授の Affleck 先生の家を借りる事が出来た。この先生も夏に米国の研究所に丁度、1か月間滞在すると言う事で、その家を我々が使う事ができるようにして頂けたのである。しかしこの場合、一つ条件が付けられていた。それは『2匹の猫の世話をする』と言う事であった。これは勿論、自分達に取っては望むところだったので全く問題なく、うまくこの家を借りる事が出来て非常に幸運であった。
この2匹の猫の食事には猫フードが決められていたので、特に問題はなく至って簡単ではあった。さらに家の2階には猫の出入り口が作られていて、そこから猫たちは自由に出入りしていたので、食事以外で猫の世話をする必要はなかったのである。2匹の猫には我々が勝手に名前を付けて呼ぶことにした。シャムちゃんとべーちゃんである[付記1参照]。シャムちゃんは毛並みがきれいであったが、ひどくシャイでもあって、なかなか懐かなかった。一方、べーちゃんの方はかなり大きな猫で割合、簡単になついてきた。しかし時に、噛みつく危険性があると感じていたが、幸いそのような事が実際に起こることはなかったものである。
最初の1週間は猫たちが猫フードを問題なく食べていたし、それ以外の,例えば我々の食事に興味を示すことはなかった。しかし、1週間後、猫たちの食生活に劇的な変化が起こる事になったのである。それは釣りとその釣果と関係している。バンクーバーの借りた家から車で20分くらい走ると海岸にでて、その近くに Jericho Beach があった。それでそこに釣りに行ったのであるが、その日、幸運にも座布団のような大きなカレイが数匹釣れたのである。このため、この日の夕食を境に、猫たちの食の風景は一変することになった。
その日、夕食にカレイの煮つけを食べたが、当然、その余りが大量に出ていたものである。そして、猫たちは最初は我々が食べている所を注意深く眺めていたが、次第にゆっくりゆっくりと魚を食べる事に参加して、つつき始めたのである。そしてその内に、さらに積極的に魚を食べることになって行った。実際、その後は基本的に猫フードを食べないで、我々と同じ食事を食べるようになってしまったものである。
猫たちが我々と同じ食事を食べるようになってから、夜は必ず、布団の中にもぐり込んでくるようになっていた。それだけ懐いてきたと言うことであろう。ある時は、べーちゃんが小鳥を捕まえて、それを見せに来たことがあった程である。しかし、猫たちは基本的には食事と夜以外は単独行動を取っていたし、これが毎日の生活パターンであり、自然な事ではあった。そして『事件(?)』は帰国の日に起こった。
1か月の滞在はあっという間に過ぎてしまい、いよいよ日本に帰国する日となった。その家は Vancouver 空港からは車で40分ほどの所にあったので、その日の朝方には荷物を作って帰る準備を急いでいた。そして全ての荷物を車に運び入れて、自分は車に乗り込んでいたが、子供たちは家の玄関先に戻ってしまったのである。どうしたのかと思って車から降りたら、なんと2匹の猫が玄関先にちょこんとすわって我々を見送っていた。これまで猫たちが玄関先に出ていると言う事は決してなかったので、これにはさすがに自分も驚きを超えて、しばし立ちすくんでしまったものである。そして子供たちは泣き出してしまうし、しかし飛行機の出発時間が迫っていたし・・・。しかしながら自分としてもこの飛行機の時間に遅れる事は絶対に許されないので、何とか子供たちを説得したものである。
しかし何故、猫たちがそろって玄関先にでてきて、2匹並んですわっていたのか、これは本当に不思議としか言いようがない事である。その2週間程前に、Banff に旅行に行ったことがあったが、しかしこの時、同じように荷物を作ったのだが、猫たちが玄関先にいたことは勿論、なかったのである。確かに、これは実際に起こった事象であり、この事実を理解したいと思ってはいる。これはしかしながら『猫は人が考えている以上に我々の行動を本能的にわかっている』としか言いようがないと自分は思っているが、どうであろうか。
この話には後日談がある。それから数年後に、Vancouver で国際会議があり自分も出席した事があった。この時、Affleck 先生にあらかじめ連絡したところ、まだ同じ家に住んでおられると言う事であったので、懐かしさもありその家を訪ねる事にしたのである。そして、Affleck 先生の家の居間で彼と少し雑談をしていたが、この時、先生の奥さんは少し離れたところで話に加わっておられたものである。それは、この奥さんの脇にシャムちゃんがいたからであった。それで、自分が『シャムちゃん』と呼んだところ、何とこのシャムちゃんは自分の膝まで寄ってきたのである。これには自分も驚いたが、しかしそれ以上に驚いていたのは奥さんの方であった。『この猫は非常にシャイなので普通、他人の所に行く事はあり得ない』と繰り返し言っておられた。恐らく、猫は人の声を覚えているのであろうと考えているが、実際はどうであろうか。
[付記1] : インコのべーちゃん
昔、インコを飼っていたことがあった。そのインコの名前をベータとしたが、我々はべーちゃんと呼んでいた。Vancouver の猫の名前は、勿論、ここからきている。そして、このインコも20ワード程はきれいな発音で喋る事ができていたものである。特に、『べーちゃん』と『こんにちは』と『フジタ』と言う単語は非常に明快に喋っていた。毎朝、バッハの音楽を聞きながら、このべーちゃんを自分の指に乗せて様々な単語を教える事が自分の日課でもあった。その時、べーちゃんは指にとまったまましばしば眠ってしまい、こっくりこっくりと舟をこぎだしたものだが、やはり勉強嫌だったのであろうか。
これは、船橋校舎における1年生の力学の講義の時であったが、黒板にα、βと書いた時、ふと『うちのインコの名前はベータと呼ぶ』と言ってしまったのである。普通は、何処で余談話を入れるかは必ず、準備していたのだが、この時ばかりはふと口に出てしまったのである。これに対する学生諸君の反応は予想を絶するものであった。普段、静かな教室が一変して、私語が始まってしまったのである。これはやはり準備不足が招いた失敗と言えた。しかしながら、その講義の後、授業内容に関する質問とは別に、普段は質問をしない数人の学生がやってきてインコの事などをあれこれと話しかけてきていた。そして、これは学生との触れ合いと言う意味においては、この失態はそれ程、ひどいマイナス点とは言えないのかも知れないと勝手に思ったものである。
[付記2] : 何故、一般相対論は無意味か? [2023年12月]
現在、一般相対論が何故,物理的には無意味な理論であるかと言う事が厳密に証明されています。これは Einstein 方程式は数学的に間違っていると言うわけではありませんが、しかし物理的には無意味な方程式であると言う事の証明です。小ノート 『 何故、一般相対論は無意味か? 』を参考にしていただければと思います。
結局、これまで現代物理学の最も重要な命題は『新しい重力理論が場の理論的に作ることができるか?』と言う事に集約されていました。これがあれば、もともと一般相対論は不要でした。新しい重力理論に関しては [教科書 Fundamental Problems in Quantum Field Theory (Bentham Publishers, 2013) ] を参考にして頂ければと思います。
一般相対論のような物理的に意味をなさない理論に多くの人々が振り回されてきた事実は取り返しがつかない程、重いものですね。しかしこれからは前を向いて行くしかありません。この場合、物理を学ぶ時に、実は哲学を学ぶ事も重要であると考えています。特に、研究において、どのような方向に進んで行くべきかと言う事を模索している時に、哲学的な思考法は重要な指標を与えてくれることがしばしばある事は間違いない事です。詳しい事はここでは触れませんが、最近出版された 『恣意性の哲学』(四方一偈著、扶桑社新書476) が少し参考になるかも知れません。この本は物理とは直接の関係はありませんが、私の最も親しい人が書いた本なのでここに挙げておきます。若手研究者は時間を見つけて是非、読んで頂きたいと思います。
[記:この哲学書の著者 (兄・圭一) は令和6年4月初めに他界]
[付記 S]:積み重なる努力 [2024年1月]
現代においても、才能ある若者がその才能をあまり発揮できていない場合がよく見られています。これは才能はあっても、実際には環境とか運とかタイミングがかみ合わなかったりして、その才能をうまく開花できていないと言うことですね。それではこの場合、その才能を発揮してさらに伸ばして行くためにどうしたらよいのでしょうか?恐らく最も重要な点は、他の人よりもより多くの『積み重なる努力』を続ける事であろうと考えられます。
それでは、その『積み重なる努力』とはどのようなものなのかが問題となりますね。物理学において、自分の実力をつけるために、物理の教科書(例えば電磁気学)を何回も読んでそれをほとんど覚えてしまうような、そう言う努力をしたとしましょう。ところが、この努力は大学において試験の点数を稼ぐには効果があるかも知れませんが、残念ながらこれは積み重なっては行かないものとなっています。教科書を覚える事をしても、これは物理の基礎トレーニングにはなっていないからですね。一方において、例えば電磁気学の演習問題を執拗に解きまくると言う事を実行して行くと、これは物理における積み重なる努力に対応しています。但し、これは途方もなく時間が掛かってしまうし、また非常にタフな作業となっています。従ってこの演習問題を解くと言う基礎トレーニングを効率よく行う必要があります。それは、人が持っている時間(人生)は有限であり、そのハードな作業を一定の時間内にやり遂げる必要があるからですね。従って、この作業を実行して自分の実力をある期間内に向上させる事ができるかどうかが重要なポイントとなっています。そして、これができるかどうかも一つの(別個な)才能と言えるものかも知れませんね。
[付記SS] : 理論物理の基礎トレーニング [2024年7月]
理論物理学の研究においてトップレベルの新しい研究を持続して行うためには『基礎物理学の演習問題を解く』と言う作業が重要となっています。例えば、電磁気学の演習問題を解き直してみるとかゲージ不変性について再検証すると言うような基本的な作業を普段から行っていない限り、高いレベルの研究を続けることは、まず不可能となっています。実際問題として、しばらく前に提案した『 試験問題 』を自分で解けない研究者が新しい研究を遂行できるはずがありません。理論物理学の新しい研究は常に基礎物理学を土台として、その上に成り立っているからですね。
[fffujita@gmail.com]